カイノナマエライブ
ポスト現代詩・第123回
『混血へ 2015』
8月30日(日)
邦楽器演奏、アウトサイダーアート
@高知 studio BELLS
開演19:30
◇ドリンク代のみ
出演:
梅田恵(龍笛)
べつのしかたで(脱構築)
詳細:
2015年8月30日(日)
開演19:30
ドリンク代のみ
ドリンク代のみ
高知市はりまや町3ー17ー22
TEL.090ー1175ー5545
・龍笛とは
龍笛(りゅうてき、竜笛)とは、雅楽で使う管楽器の一つ。吹き物。
龍笛は竹の管で作られ、表側に「歌口(うたぐち)」と7つの「指孔(ゆびあな)」を持つ横笛であり、能管、篠笛など和楽器の横笛全般の原型・先祖であるとも考えられている。
雅楽の楽器の中では広い2オクターブの音域(E5?D7)をもち、低い音から高い音の間を縦横無尽に駆け抜けるその音色は「舞い立ち昇る龍の鳴き声」と例えられ、それが名前の由来となっている。
音量を高めるために、管の中に鉛を入れたり、外側を樺や籐で巻いたりするなど意匠が凝らされている。
合奏では、主旋律を篳篥が担当し、龍笛はその音域の広さを活かし、主旋律に絡み合うように演奏する。 また通常、楽曲の最初の部分は龍笛のソロ演奏となっている。このソロ演奏は、その楽曲の龍笛パートのリーダー(音頭〈おんど〉、または主管とも呼ぶ)が担当する。
・脱構築
無条件的な独異な契約の中に。神とともに入るという誓いだけに。ただ責任ある仕方で、呼びかけによって負わされた共同責任に責任を持つ〔=答える〕ためだけに。それは、愛における、つまり二つの絶対的独異性〔=単独性〕のあいだの誓約における無条件的服従の試練なのだ。
〔言おうとしないことを許してください〕文学は、脱神聖化に対して、宗教的に聖なる啓示の世俗化と言われることもあるものに対して。
どんな指示対象をも提起することなど意に介さず、何も言おうとしない〔=意味しない〕ものになるかもしれない、そのぶんおのおのの作品が形成する独異な出来事に対する彼の責任(アブラハムの責任のように、無価値で無限の責任)を、無限にまで重くしながら。
文学は、すべてのそうした秘密なき秘密の場であり、すべてのそうした深さなきクリプト、呼びかけや訴えの深淵以外のどんな奥底も持たず、出来事の独異性以外の、つまり作品=活動以外のどんな法=掟も持たないすべてのクリプトの場であるのだから。
世界がもはや私たちのあいだや私たちの足元には存在せず、私たちのために媒介を保証したり、基盤を強固にしたりすることのないところで、私は他者を担い、おまえを担わければならず、他者は私を担わければならない。
もし私が赦しの名のもとに犯罪者をその罪から切り離すとすれば、私は罪のない人を赦すのであって、罪ある人を赦すのではないことになります。つまり、みずからの非を認めて謝罪する人は、もはや同じ人ではありません。
(依然として文学がわずかばかり残された宗教であり、神なき社会における神聖にして侵すべからざるものの絆や仲介であることを、誰が否定するだろうか)、しかしそれはまた、その物語を、その帰属を、その相続を否認するのである。
神は、ほかにどうすることができるだろうか。何も言おうとしない〔=意味しない〕こうした同語反復とは別のしかたを、神は言おうとすることができるのだろうか。その瞬間に、しかしその唯一の瞬間から、自律性と他律性は、もはや〈一つ〉にしかならない。そうだ、〈一〉以上に。
まさしく翻訳不可能なものが、翻訳されながら翻訳不可能なものでありつづけているところで、私は、翻訳不可能なものを別のしかたの言い回しに翻訳し、移しかえ、移動しなければならない。彼方への移行という暴力的な犠牲。
彼は、世界が世界になることについて、世界の内世界化について、さらには世界の世界化について語っただけではない。彼はまた、近いものを遠隔化するとともに脱遠隔化する遠ざかり(脱遠隔)をも思考させたのだ。
とくにハイデガーは、世界がないもの、世界が貧しいもの、そして世界を造るものとを区別しようとした。これは、私がここに取り上げることができる唯一の命題系である。
世界の思考そのものを、この消失から再考しなければならず、この消失自身を、「私はおまえを担わなければならない」ということから再考しなければならなくなるのではないか。これが、果てしのない会話のあいだに、私がガダマーに助けを求め、彼にしてみたかった問いの一つである。
たぶん、そうしたすべての理由から、私はまずヘルダーリンを引用することから始めるべきだった「というのも、誰も独りでは生を担わないのだから。
もし赦しが倫理的であるならば、ジャンケレヴィッチのいうように、それは《誇張法として倫理的》なのです。つまりもろもろの規範、基準そして規則を超えているのです。
すなわち、赦しはひとつの対面の経験、《私》と《君》の経験であるのに、同時にすでに、共同体、世代、証言といったものがあるのです。赦しが与えられるにせよ与えられないにせよ、何かしら言述がある以上、共同体の関与が、したがって、ある集団の関与があることになります。
そこに悲劇があります。つまり、ジャンケレヴィッチは、赦しの不可能性と同時に、和解や喪の作業、存続する生活、歴史のはたらきなど、もろもろの両義的な形態のもとでの、赦しの不可能性を認識しているのです。
赦しや和解などのない歴史はありません。そして同時に、赦しの中には歴史を超える何かがあります。その何かは、歴史を中断し、狂気の瞬間のように逆説的で予想もできない瞬間において、彼方に立ち上がるのです。
被害者たちの脆弱さ、その脆弱さに結び付けられる傷つきやすさは言うまでもありません。私は、このような壊れやすさを考えようとしているわけです。
(ジャック・デリダ)
主催より:
龍笛奏者の梅田恵さんをゲストにお招きいたしましてアウトサイダーアートやります。雅楽の花と醜い脱構築が醸し出す差延です。
熱射の市よ。余は汝の額にサスペールと署名為る。黄色いオルフェの峠には囂しい汝のMauvais sang.ではまだあまりに遠い。歩み去る異邦人に続いて汝も直ちに踵を返せ。行け北方の養蚕場へ。(よろしければ、ぜひ)
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